論語を読みました

加地 伸行の訳注です。

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初めて論語の全文を読んだ。

論語はそれこそ誰でも知っている故事から、そこらじゅうにある名言集のような形で触れる機会があるけど、全編を読むことで初めて、儒教の開祖的な存在としてよりも、孔子の人間個人のらしさに触れた気がする。 どういうことかと言うと、孔子はどうやって君子たるべき教えを説いているが、論語孔子を聖人君子として奉っているわけでは無いということだ。

それは例えば、 「真に政治を任せられるのは誰ですか?」と聞かれて、優秀な弟子の名前をあれこれ挙げるけれど、結局全員にダメ出ししてしまったり、所詮奴らはワシには全然及ばんよ、と言わんばかりだ。意外と孔子は他人へのディスりは多い。(顔淵だけは認めている。若くしての死が物故者を伝説化するケースは多々あり、それかも)

また例えば、 武城で詩を歌っているのを聞いた孔子が、「こんな田舎町で詩をやるのは鶏を割くのに牛切り包丁を使うようなものだ」、と言ったことに対して弟子の子遊が「師が礼楽を大切にしなさいと言ったではありませんか」、と言い返すところで、「おまえが正しい。先ほどのは冗談だ」のように素直に過ちを認めるやりとりがある。

これなど孔子は全くもって成人君子として書かれてはいない。

人知らずして・・・

そして大いに感じさせられたのが、孔子の言葉で何度も形を変えて出てくる表現である。 「人の己を知らざることを患(うれ)えず、人を知らざることを患う」 「位(くらい)なきことを患(うれ)えず、立つ所以を患う。己を知ること莫きを患えず、知らるべきことを為すを求む。」 さらに有名な学而第一でも「人知らずして慍らず」が出てくる。

ここで孔子は繰り返し、人に自分の能力を認めてもらえなくても怒らず恨まず、自分の足りないところを反省して励めと説いている。 何故だろうか。

個人的に、これは孔子が自分自身への戒めとしたのだと思う。 孔子は良家に生まれたわけでは無く、魯の国で一度下っ端の仕事に仕官させてもらうが、それ以外は斉の景公に取り立てられそうだったが上手くいかず、自分の能力と名声からすると望むような仕官に付けないもどかしさが必ずやあったと思う。

それでも腐らず、人々に教えを説くことを命と信じて、時には言い聞かせて、深く人の心や物事を考え知ることに励んだのだと思う。

正直、今の自分の身に置き換えて一番考えさせられたのが、これらの言葉なのだ。

僕の知人が、老子と対比して孔子はエリート・成功者のための思想で、老子は落ちこぼれのための思想だ、というような事を言っていたけど、それは違うと思った。 確かに儒教啓蒙主義進歩主義に根ざすところは確実にあると思うけれど、エリートの為の思想かな?そもそも思想って悩みとかコンプレックスを始点にしているんじゃないかな?

好きな言葉

最後に凄いなと思わされた言葉が、 「学んで思わざれば則(すなわ)ち罔(くら)し。思うて学ばざれば即ち殆(あやう)し」 だね。

今でこそインターネットで何でも知識がすぐに手に入る世の中になって、物知りなだけではオンリーワンになれない、それだけでは役に立たない時代にいるけれど、当時のこの時代には、物知りなだけでも随分いい地位にいられたはずだ。 そんな時代にあって、知識だけで思想の無い学が意味の無いものだと、気づいて警鐘を鳴らすことが出来た感性に恐れ入る。

そして近年は、自分の思い込みだけで書かれた、時流に乗るだけのインスタントな啓蒙本がなんと多いことよ!

ということで終わり。次は老子を書きます。